絶唱 & 黄昏
「絶唱」 ひょっとして舟木一夫さんの歌を思い出す方も?
そう考えるところが古いって?
そこで「絶唱」を検索してみると最初に出てきたのは「戦姫絶唱シンフォギア」というアニメでした。
知らない私はやはり古かった?
そして舟木一夫さんの歌は大江賢次さんの小説「絶唱」を原作として映画・ドラマ化された時の楽曲だそうです。
ここでの「絶唱」は湊かなえさん著の本
背表紙の「喪失と再生を描くミステリー」という文に惹かれて読んでみました。
四つの物語からなり、それぞれの物語を読み進めていくと、
阪神淡路大震災とトンガで繋がっています。
私小説でもあるようです。
本書に「わたしは(僕は)あの時~、と自分のことを語りたがるのは、境界線のもっと外側にいた人たちばかりなのです」とありますが
湊さんが震災のことを書くにはかなりな覚悟がいったのだと思います。
後押ししてくれたのはトンガに住む尚美さん。
物語のモデルになった人たちと会うことができたのも尚美さんの紹介。
この後尚美さんは亡くなられています。
本書の最後に
「尚美さん、もうすぐあの震災から二十年です」と書かれていました。
キミが最後に阪神淡路大震災についてブログに書いていたのも
震災から二十年の年でした。
その数日後にキミはこの世からいなくなりました。
そして五年が経ちました。
阪神淡路大震災の後もいろいろな災害が起こりました。
中江有里さんが絶唱の解説で書いています。
「災害の記憶は時とともに薄れていく。しかし被災した心の記憶を残す人がいる限り、なくなりはしない」
忘れ去られるのは怖くて、寂しくて、辛い。
今年は震災には触れないでおこうと思ったけれど、
この時期に偶然読んだ本が本書
やはり書いておこう。
忘れないよ!
阪神淡路大震災の慰霊・復興を後世に伝える
「やさしさ」と「おもいやり」そして「生きている証」としての灯り
【 1.17希望の光 】
2001年1月17日「希望の灯り」が分灯され東遊園地から全国69都市に
市民ランナーによって届けられた





急用で四国に行ってきました。
往きは瀬戸大橋を通って
翌日時間があったので、
ブラタモリで紹介されていた日暮別邸記念館に寄ってきました。
【 日暮別邸記念館 】
別子銅山(開坑1691年)の精錬所が新居浜から
瀬戸内の沖合20kmにある四阪島に移転(1905年)された翌年
住友家の別邸として四阪島に建設された
経年劣化により四阪島での保存が困難となり
住友グループ20社が協力して、四阪島を遠望できる新居浜の高台に
洋館部分の地上階のみ、30ヶ月をかけて移築
2018年11月1日から一般公開
※ 別子銅山 → 住友別子銅山 → 住友鉱業 → 住友金属鉱山
住友財閥の源流企業
建物から少し登った展望台から
北側
南側
こちらでは北が海、南が山なんですよね。
海を渡ったことを改めて気づかされます。
帰りは大鳴門橋、明石海峡大橋を通って
夕日を見ながら人生って・・・
この日も私の人生も黄昏てしまいました
神戸の街が見えてくると帰ってきた感が
2月は楽しい予定がいっぱい
どうか予定通り実行できますように!
この記事へのコメント
「絶唱」と聞いて・・・舟木さんは思い出せませんでした。
申し訳ありませんがその歌のタイトルは全く知りません。(曲を聞けば、ああこの歌かと思うかもしれません)
舟木さんというと「高校三年生」は、つい先日も思い出しました。
その歌が流行ったときは私は中学一年でしたが、なつかしいです。
4年前に中学の同窓会の2次会のカラオケでは、高校三年生の部分を「中学3年生」に変えてみんなで合唱しました。
「じゃあまた4年後に会おうね」だったので、今年がその年になりますが、あるのかなあ?
神戸で震災を体験し、同居していた高校生の姪御さんを
亡くされた方が、息子さんのお近くに引っ越してこられ、
私も仲良くさせていただいています。
もう80歳台ですが、神戸の女性らしくハイセンスだし、
ポジティブな生き方がとても素敵です。
実体験のお話は、TVなどの報道とはまた違っていて
よくぞ生き延びられたと、感心するばかりです。
穏やかな暮らしを望まずにはおれない昨今ですが、
いじけないで楽しく過ごしたいですね。
2月のお楽しみが、すべて順調であるよう願っています。
素敵な夕日が見れて良かったですね(^_-)-☆
受賞されてないんですね。ちょっと
意外な気もしました。この本は読んでませんが、
「…外側にいた人たちばかり」という表現は、
胸に刺さるような気がしました。
地震、津波の被害を受けた方々や、
戦災に会われた方々の思いは、決して
薄れるということが無いんだろうと思います。
本当に便利ですね。
四国一周のドライブもしたいね。
夫は高校の同窓会でそのまま「高校三年生」を歌うそうです。
この時代の同窓会では「高校三年生」が歌われることが、けっこう多そうですね。
「絶唱」はたぶん「高校三年生」より後で出されたと思います。
実は私も歌詞などあまり覚えてないんですよ。
今年も皆さんで「中学三年生」歌えるといいですね。
この本を読んで、震災によりいろんな形で傷を負った人たちがいるんだなぁと、改めて思いました。
痛みは続くけれど、忘れてはいけないんだなぁとも思います。
素敵な先輩との交流は生きる力になりますよね。
これからも交流が長く続くといいですね。
母の言葉ですが、楽しく暮らせるかどうかは自分次第。
できるだけ楽しく過ごしていきたいですね。
>2月のお楽しみが、すべて順調であるよう願っています
ありがとうございます。
お互い大波が来ませんように! 穏やかに過ごせますようね!
私も同じ神戸ながら、境界線の外の人間です。
「…外側にいた人達ばかり・・・」この言葉は重いですね。
阪神淡路大震災に限らず、いろんな災害で、いろんな形で傷を負った方たちがおられ、痛みは薄れることがないんですよね。
でも忘れてはいけないんだと思います。
>四国一周のドライブもしたいね
この言葉、連絡橋建設に関わった方の奥様に伝えておきます。
喜ぶと思いますよ。
「絶唱」は読んでいませんが、「Nのために」は書も読んだしドラマも観ました。個人的に榮倉奈々さんが好きなものですから。。
すずりん♪さんのお辛い気持ち、痛いほどわかります。
阪神淡路大震災、東北大震災、諸所の災害などなど、時が経てば当事者じゃない限り他人ごとで終わってしまうのですよね。
決して忘れてはいけないのです!
以前、神戸の防災センター(?)を見学した時、すさまじい映像やジオラマに驚愕した覚えがあります。
「希望の灯り」は今でも点灯してるのですか?
新居浜に行かれたのですね。
神戸からだと、近いでしょうね。
記念館地上部の移築、30ヶ月も掛かりましたか。
松山へは良く行きますが、新居浜は一度もです。長閑なところなんでしょうね。
2月は楽しいご予定がいっぱいですか?
いいな♪
またUPしてくださいね~!
私は、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』派で^^;
物事を調べる事はあっても、書物を読むことが無くなりました。
ただ、阪神淡路大震災を忘れる事は無いです。
神戸市民で、震災後に生まれた人が半数を超えるようになったとか。
震災を忘れられては困るので、
この事を伝え続けていきたいです。
ブラタモリで紹介されていた日暮別邸記念館。
これがあった四阪島の産業は、鉱業以外の事業へシフトしたため、1988年(昭和63年)に同島は無人島になったとあります。
それで、四阪島が望める新居浜の高台、星越山へ移築したわけですか。
30ヶ月をかけての移築とは大工事でしたね。
2月の予定が、山盛り状態なんですか!
山記事、盛りだくさんでお願いしたいデス^^)
震災に会われた方は「もう」ではなく「まだ」なのかもしれないと感じています。
私の知人は初孫が誕生するので神戸に行っていて震災に会いました。
マンションの10階は大揺れに揺れて生きた心地がしなかったと言っていました。
その子も今25歳、毎年どんな思いでこの日を迎えているか知りたいです。
最近は置かたま方面へ出ることもないので、もっぱらしまなみ海道や淡路大橋を利用で、瀬戸大橋は昨年与島まででした。
神戸以東の大都会は怖くて走れません。
そちらは、もうすぐ春・・・な空気感ですね
「Nのために」はどうでしたか。
他の災害だけでなく、阪神淡路大震災に関しても、私は同じ神戸に住みながら境界線の外の人間で、いろいろありましたが、中の人から見れば他人事ですので、あまり語れないんですよね。だから取り上げるかどうか迷いましいた。
今も金銭的、精神的に苦しんでいる人、教訓を生かすシステムづくり、私にできる事はないのですが、犠牲者や残された方に思いを馳せると、
せめて「忘れないよ」と言いたくて。これも当事者には届かないのですけれどね。
「希望の灯り」はずっと灯し続けられています。
新居浜は私が生まれ育ったところです。
今は実家もありませんので、帰る感覚ではなくなりました。
工業都市で中心部は長閑な所とは程遠いですが、まだそういう所もあると思いますよ。
毎年1、2月は冬ごもりの月なのですが、今年は予定が入っていて、
上手に体調を整えたいと思っています。
意外かもしれませんが、私は小さいころからインドア派で本好きでした。
子育ての頃からは中休みしていましたが、今また読書好きがむくむくと。
もう神戸市民の半数以上は、震災後生まれとは、改めて時の流れを感じます。
>震災を伝え続けて行きます。心より頼もしく思います。
新居浜は私の生まれ育ったところで、星越も四阪島も馴染みの名前なのですが、日暮別邸記念館は、ブラタモリで初めて知りました。
大変な工事だったようですが、さすが住友グループですね。
2月の予定がいっぱい
はあくまで例年冬ごもりしている私にしてはという事です(-_-;)
残念ながら山記事は夏まで書けそうにありませんので、
アルクノさんの山記事を楽しませていただきます。
その人によっても違うでしょうし、同じ人でもその時々、どう感じるか違うのかもしれませんね。
境界線の外の人間ではありますが、我が家もいろいろあり、「死の恐怖」とはこういうことなのかと思った記憶があります。
今では震災後に生まれた人の方が多くなっているとか。
その方のお孫さんがお生まれになったのは震災前?震災後?
いずれにしても25歳になられたお孫さんが元気にご活躍されることを願っています。
歌詞が友と歌うのにぴったりですよね。
私も昔は瀬戸大橋や明石大橋を通って、一人で四国まで行ったことも何度かあったのですが、今は近くを走るだけで、街を走ることも四国に行くこともなくなりました。
いいところがいっぱいの四国を楽しんでください。
私はつい犠牲者と残された人たちのことを考えてしまい、忘れられる寂しさに思いがいきますが
確かに人によってまた場合によって、忘れることによって前に進める場合もあるのでしょうね。
でも、振返るのはつらいけど、振返らなければ。
忘れたいけど、忘れてはならない・・・ですね。
もう、5年、そして、25年ですね。
日暮別邸記念館、文明開化の頃の洋館なんですね。カッコイイですねぇ。
北が海、南が山って、山陰とおんなじ。^O^
陽の沈む夕景、良いですね。
すずりん♪ さん、黄昏ても、又、陽は昇ります。
自信がなくなっていて これは年齢のせいかと・・
1月もアッという間に過ぎてしまいました。
楽しい予定が全て順調に行われ楽しい記事にUPされますように待っていますよ~~~~~
もう2月になりました。早い早い。
2月は素敵なご予定ばかりとか、楽しんで
下さいね。又、ブログで聞かせて下さいね。
湊さんの小説は大好きで良く読みます。
「絶唱」も良かったですね。
色んな事を忘れないで、前を見て生きていきたい
ですね。
舟木一夫の同名の歌が暗かったので、そう思っただけです。
あの阪神淡路大震災から25年たちましたか…。
月日のたつのが早く感じられるのは加齢現象が進んだからかも知れませんね。
淡路島の西岸から眺める夕陽は美しいので有名です。
また夕陽見物に行きたいものです。
黄昏も自然の営みですが、人生の黄昏もまた自然なんでしょう。
終わりがあるから、輝くときもあるんですよね、きっと。
ブログのリニューアル後、てくてくさんが息子のブログの設定にもお気づかいくださり、とても嬉しかったです。
だから「忘れないこと」は残された人たちの大きな支えになるのではないかと思っています。皆さんに届いてはないんですけれどね。
日暮れ別邸記念館、中はそんなに豪華ではなかったですけれど、いろんな歴史が詰まっているんですね。
こちらに住むようになった当初は北が山、南が海に戸惑いましたが、
今は逆に北が海、南が山にちょっと戸惑いが。。。
山陰の人もこちらに来るとちょっと戸惑うのでしょうか。私だけ?
人生の黄昏時、大事に楽しく過ごしたいです。
記憶に間違いはありませんよ。自信をもってください。
でもコマダムさんもそうなんですね。仲間、仲間、うれしいです。
私も自分の記憶に自信がなくて、物事を言いきれなくなっています。
ですに、 たぶん がついてきます。
例年、1.2月は冬眠の季節で、予定があるのは稀なので、
UPできるよう体調整えて楽しみます。
今年もあっという間に終わってしまいそうです。
例年この季節は冬眠してる私にしては、いいつもより多く予定が入っているというだけなのですが。
ブログで報告できるよう、せいいっぱい楽しみますね。
「絶唱」ゴンマックさんも読まれたのですね。
再生していく姿は勇気づけられました。
>いろんなことを忘れないで、前を見て生きていきたいですね。
そう思います。
最近重すぎる本は苦手で、最後はなるべく暖かくてほっとできる本を選んでいます。
月日が経つのが早く感じるのは「ときめきがないから~」なんて言われていましたが、私はぼ~っと過ごしても、楽しく過ごしても月日が経つのが早い気がしています。
やはり加齢によるものなんでしょうかねぇ。
淡路島の西岸から眺める夕陽が有名なんですか。
この夕陽、走っている車の助手席での撮影ですので、ぜひゆっくり夕陽見物してみたいです。
黄昏、寂しいですが、そうですね。自然なんですね。
でもギラギラした輝きはないけれど、黄昏も美しいですよね。
人も終わる前に静かに輝きたいものです。
残されたものは生きていかなくてはいけませんものね。
真っ暗な中で、自分の足元を照らしながら、ゆっくり前に歩いていくしかない。
でも忘れたわけではないよ。忘れないよ!
絶唱と言えば舟木一夫ですよね
映画も観ましたよ、和泉雅子さんが小雪さんでしたよね
私もちょっと検索したら、湊かなえさんの名前が出てきました
阪神淡路大震災があった年の3月に父が亡くなりました
毎年1月に今年で震災から何年経ちましたという報道で
父が亡くなって何年だなぁって思います
2月楽しい予定がいっぱいですか
身体に気を付けて楽しい2月のブログ更新お願いしますね
私は映画は見ていませんが、歌が浮かんできます。でも歌詞は覚えてないんです(-_-;)
お父様が亡くなられた年は阪神淡路大震災と同じなんですか。
お母様より20年以上早く亡くなられたんですねぇ。
楽しいことがあると、逆に何か悪いことがあるのではないかと不安になることがありますが、予定通り実行して報告できればと思っています。
湊かなえさんの「絶唱」も未読です(^^ゞ
自分の事を語りたがるのは境界線のもっと外側にいた人たち…
どれだけの痛みを味わったらこんな言葉が出てくるのだろう。
その心の痛みが少しでも軽くなる日はいつ来るのだろう。
色々な事を感じさせられる言葉でした。
今度この本を読んでみようと思います。
日暮別邸記念館、こんな素敵な洋館に住んでみたいものです(笑)
夕日もとっても素敵ですね。まだまだ黄昏てなんていられませんよ~(*'▽')
震災の境界線はどこにあるんだろう?これも難しいですよね。
直接被害を受けなくても、人生が変わるくらい深く傷を負った人もいるんですね。
先日、海原純子さんのこんな文章を目にし、心に残りました。
「震災が過去の事にはならずに、痛みをかかえながらも今を生きている人たちが多いことに気が付いていたい」
湊かなえさんの「絶唱」をもし読まれたら、感想を聞かせていただけると嬉しいです。
ほんと、高台のこんな素敵なお家に住んでみたいですね。
夕陽を見てると自分の人生と重なって、ちょっとセンチになります。
まだまだひっそりと輝いていたいですけれどね。
お住まいでしたか、私は西宮の広田神社の直わきに住んでいました。
家具が倒れ家中が足の踏み場も無いようになりました、近くの家は全て倒壊してまるで映画で爆撃を受けた終戦後の風景を映し出しているような感じでした。
京都の施設に居た父は暫くしてから行くと形相を変えて何で来なかったみたいに動けない体で怒ってね、j実情を知らないし、知らせないから、只々誤っていました。
本当に当面した人でないと段々と忘れられていくのでしょうね。
久々の四国でしたか、懐かしいですね、橋が出来て簡単に行けるようになりましたね。最近、四国高松間のフェリーも運行しなくなり旅情を感じるアイテムが無くなってきますね。
早く早く行けるのも良いけれど・・・・・。
どんな楽しみが有るのかな?ブログが楽しみです。
充分楽しんでくださいね。
西宮もすごい惨状だったのですね。
広い地区でかなりの揺れだったから、お父様も周りにまでは気が回らなくて、京都で不安だったのでしょうね。
私は神戸でも六甲山の裏ですから被害の少なかったところです。
それでも箱に詰められ、巨人に床にたたきつけられているようで、ただただ揺れが止まるのを待つしかなかったです。死の恐怖とはこういうものかと思ったのを覚えています。
夫は単身赴任でしたので、電話が通じた時には「早く電話に出ろ」と怒鳴られましたよ。停電で電話が通じてなかったのにねぇ。
直接の被害は小さかったですが、間接的にはいろいろあり、今考えると長男の受験では人生が少し変わったかもしれないなと思ったりします。
そうですね情緒はだんだんなくなってきていますが、
反面、橋ができて四国への行き来が早くできるようになり、用事で行く時は助かります。
次男に倣って、凹んだ時は楽しい予定を思い浮かべるようにしています。
うんと楽しみますね。
昨日は温かいお言葉ありがとうございます。
こちらこそ、これからもよろしくお願いします。