阪神淡路大震災から21年

キミは毎年この日に阪神淡路大震災を取り上げてました。
今年は私がそれを引き継ぎます。

1月17日午前5時46分
キミは遠距離通学のため、早い朝食をとっていました。
どーん!
「これなに!」とキミが発した言葉通どおり、真っ暗な中、訳も分からず、巨人に家を持ち上げられ大地に叩きつけられているような感じでした。
死が頭をよぎったのを今でも覚えています。
テレビを見て初めて何が起こったのか見えてきました。

六甲山の裏側の住宅地にいる私たちでさえ大変な恐怖でしたから、もっと多くの被害を受けた地域の皆さんは、想像を絶する恐怖だったと思います。

私たちの住んでる地域でも電気ガス等の復旧の時期はいろいろでしたが、
たまたま私の周りはその日のうちに復旧して暖をとることもできました。

電気が通ってすぐ電話がなり、単身赴任していた夫が「早くとらんかー!」と怒鳴っていましたが、停電になれば電話も使えません。当時は携帯電話も持ってなく、連絡は混乱しました。

しばらくは余震も頻繁で服を着たままリビングで、家族一緒に寝ていました。
車のドアを閉めるバーンという空気の震えにどきっとしたものです。

交通も遮断され、自宅待機、学校に宿泊、いろんな手段を駆使しての自宅からと、通学方法も交通機関の復旧とともに変わっていきました。

テレビで涙ながらに「夢だったらいいにに、夢だったら・・・・・」と言っていた高齢の女性の姿が忘れられません。
多くの人は最悪の事が起こった時そう思うのではないでしょうか。

全国向けのテレビ、最初は地名を読み間違えたりしながらも、いろいろ伝えていました。
そのうち被災地ではまだそれどころではない時に、東京に大地震が起こったらなどと言う内容に変わっていて、何か違和感を覚え、地元のテレビばかり見ていました。
でもたくさんの人はそのテレビさえ見ることのできる状況になかったのです。

同じ阪神淡路に住んでいても、地域によって温度差がありましたし、ましてや近畿地方、さらに全国になるとすご~い温度差です。

大事な人を失った人は今も悲しみが癒えることなく、それでも頑張っているのです。

街を歩くと震災の傷痕はないように見えますが、まだその傷を抱えた人もいます。

20年めの去年と比べて21年目の今年は震災関連の行事が半分になったそうです。
震災への思いは距離だけでなく時間によっても薄れていくのですね。

だからこそ伝えていかなくてはいけないのでしょう。


キミは復旧後初めて電車に乗った時、顔は合わせていたけれど、話をしたことのない人から、
無事で良かったと声をかけられ嬉しかったと言っていました。
後にボランティアに行って、一緒に遊んだ子供たちから力をもらったとも言っていました。

学校に泊まっているキミたちのために近くのお母さんたちが夕食を作ってくださったり、
キミの友達のお母さんが、交通機関が整うまでうちから通ったらとお電話くださったり、
混乱している道路でも、脇道からの車を一台づつ入れたり、
優しさもいっぱい感じることができました。


キミの昨年の1月17日のブログの最後の言葉
    
        生きてこそ!









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